きまぐれレモンスカッシュ

50歳からの楽しい毎日。

スッキリものがない家の「君悪さ」

家族が生きがいの親、子の成長後の生活

お盆休み中、接客業は稼ぎ時で出勤。

子供たちもバイトなので、主人はポツンと家で大型連休を過ごしていた。

 

洗濯物などは昔よりはやってくれるようにはなってくれたが、昨夜の洗い物の山と、取り込んだ洗濯物の山が丸半日以上そのままになっていた。

 

私も家族が仕事の日なのなら、黙って家事をする。

でも、家族が休みの日は「皿洗いロボット」「洗濯ロボット」はしない。

とは言え、食洗機も乾燥付き洗濯機もあるのだけれど、

 

 

「食器のために生きている」「洗濯物のために生きてる」のではないと強く主張したいからだ。誰に主張したいのかと聞かれたら、もしかしたら自分自身に1番主張したいのかもしれない。

 

 

世間ではお盆休みも今日から開けるところも多いだろうが、彼は今日までまだ休みだ。長い長い連休だな。

これまでは、子供たちと共にキャンプに行ったり釣りをしたりしてたが、もう子供たちにも取り残された無趣味な男は、ホームセンターに行ったり家で映画をみたり動画を見たりして過ごしているが、それにしては長すぎて勿体ないように思ってイライラするのは貧乏性な私だけなのだろうか。

 

そんな姿を横目で見ながら出勤し、帰ってきたら食器、洗濯の山を見たら、

「あ〜そうですか、まだ山にするほど物が多いんですね」と、ゴミ袋を片手に怒りまかせに、ドンドン突っ込んでいった。

 

そして、ふとゾッとした。 

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うちの主人の実家に初めて訪れた人は、どの人も唖然とするくらい「ものがなくスッキリ」している。

私の実家は、昭和の家らしく物がないと不安な性分。ごちゃごちゃしているがこんな感じが普通なのだと思って生きてきたので、かなり衝撃的に驚いた。 

 

食器棚の中には、人数分が人セットだけ平積みになっている。

うちの母は料理上手なのもあって、食器と言うものは5客がワンセットで、今日はどの食器を使おうかと、悩むものだと思い込んでいた。

 

私が本格的に、もの減らし活動を始めたきっかけは「乳がん」

何度もこのブログに書いているけど「摩耗したくないから」

家仕事に私の大事な時間を縛られず、これからはしたい事はする。

 

沢山の沢山のミニマリストとか言うものに、なりたいブログが存在するけれど、

その動機というものは、本当に様々だと思う。

でも、きっと心の何かのわだかまりも一緒に捨ててしまいたいという点では、きっと共通しているのだと思う。

 

私の動機と言うのも上記のようなものなのだけれど、

ふと自分はもしかして義理母と同じようにしているのだろうか?

 

うちの主人は、この通り「ものを片付けない、散らかす、無くす」

長男も同じ傾向。

 

次男の存在があるので「普通」が実感できるのだろうと思う。

この事には感謝していて、次男も同じ傾向であったなら、私はどこが平均の感覚なのかきっと均整を失っていだろうと思う。

 

スッキリとした家と言うのも、これまでお邪魔したお宅でいろいろ拝見してきたが、

それぞれの趣向を感じたり、それは人生観みたいなものなのかもしれないんだけれど。

 

主人の実家のスッキリ感に、何か「唖然」としたものを感じたのは、今思うとこの「怨念」みたいなものなのかもしれない。

 

家事を全く手伝わず、休みの日にはゴルフの義父や片付けない子供たちへの怒り、

「家仕事」に縛られてる彼女の自分の人生への嘆きだったのかもしれない。

 

なぜ、ゾッとするのか。

 

それは義母の人生がとても幸せそうだとは思えなかったから。

 

少し義母の事を下げむような物言いをする義父。

彼女自身の価値観的にも、贅沢は敵。何をするにも「勿体ない」

 

お金を使う事を勿体ないと 考えてしまうと、やりたい事の選択肢はかなり狭まると思う。

 

勿論だからこそ「ただで遊べる」などと言うサイトやブログに需要があるのだろうけど、やっぱり本当に楽しい事は「お金を使う」所に多いと思う。

 

一瞬で消えた2000万円

 

そんな義母の人生は、いつも貧乏くさい服を着て、遊びもせず家族の為に長い時間摩耗して、驚いた事にコツコツと長い年月で1000万円もヘソクリをしていたらしい。

 

義兄は、バブル期入社した証券会社を辞めて居酒屋へ転職。

店を買い取り、そしてダメにして借金の塊になった。

取り立ての電話がジャンジャンなり、義理父の退職金も義理母のヘソクリも一瞬で消えた。

 

お金が消えただけでなく、ヘソクリが消えたと共に彼女のこれまでの人生が消えたのだと思う。

 私は、

ゴミ袋片手に、怒りを放り込んる自分を彼女に投影して、一瞬ゾッとしたのである。

 

断捨離本、ミニマリスト本には、マインドがあって、

きっと読んで影響を受ける人には、「ものがない」事実に衝撃を受けているのではなく、しがらみやら人生の固定観念やら、執着や思い込み、そんなものを手放そう!と言うマインドに衝撃を受けたのだと思う。

 

とにかく雑音の中から脱却したい。

今の生活を変えたい。

自分の人生を変えたい。

しがらみから解き放たれたい。

 

もしかしたら、それはものを捨てる事でなくてもできるのかもしれない。

 

しかし、「何もない」世界に魅了されてしまったそんな人は、きっと心の奥底、

潜在的にふつふつと混沌とした「わだかまり」とか「怒り」とか「悲しさ」「悔しさ」そんなものを捨てたいって事なのは間違いないと思う。

 

ミニマリストブログなどを見て、たまにこの「ゾッとする」を感じる時がある。

 

実際はそんな事はなくて、シンプルなものかもしれない。

 

でも捨てると言うのは、エネルギーが必要。

自分で選択して購入したものを「はい、私が悪う御座いました。無駄金を使いました。」と、過ちを認める事なのだから。

 

間違いを認めたくなくて、嫌まだ使えるかも、必要かも。

それが執着。

人生は選択の連続だから、物を買う以外にも「学校」「仕事」「結婚」マインドは同じようなものかもしれない。

 

もう何もいらない

 

50歳の私。

48歳で乳がんの手術をした私。

 

欲しいものは手に入れたい。我慢しているうちに人生は終わってしまう。

 

つまらない固定観念はいらない。

1番いらないのは、愚痴愚痴恨み言。

 

義理父母は、反面教師ではあった。

夫の親だから、連れ添ってる自分の人生に確実に投影できる。

 

こう考えると、親の悪い部分の方が子に伝えるべき「大切なこと」が多いのかもしれない。

 

なので完璧な親なら、子供の人生にいい影響を与える、そんなご苦労なマインド、それこそそんな疲れて摩耗するものは1番いらないものなのかもしれないね。